裁判に関してのいくつかの事例を見聞きし、警察の捜査を巡ってのひと悶着があり、明日ドキュメンタリー番組で放送される冤罪事件を頭の隅に置きながら、モンテーニュの懐疑を考えてみた。 モンテーニュは16世紀のフランスの哲学者で、『エセー』という書物を残した。エセーつまり「エッセイ」のことで、フランス語では「試すこと」「試し」というような意味の名詞である。言ってみれば「自分振り返り」の日記のような書物。今風に言えば公開の随筆ということから“ブログ”なんでしょうな。モンテーニュのブログか。 そのモンテーニュの『エセー』の鍵となる言葉が“Que Sais Je ?”(ク・セジュ)である。「いったい私は何を知っているのだろうか」という意味で、モンテーニュが自分に課した「問い」だった。懐疑のための判断停止。永久にそこで判断をやめるという消極的な姿勢でなく、おかしいなと思うところで立ち止まり、突っ走りがちな思考の習慣を断ち切り、本当にそれでよいのかという疑念をはさみ、判断を留保するという、積極的な待ちの姿勢である。 モンテーニュは、古代ローマの逸話を引用・書き写して、悠長に臼をひくかのようにまったりと解釈している。。しかし、いったんその引用の詩句が胸ぐらをつかむと、活発になり、宝のような思想が生まれてくる。急にポーンととび上がるのである。インスピレーションの瞬間を待っていたかのようだ。 ひるがえって現代。警察や官庁による発表や広報、またはメディアによる報道があふれるなか、どれだけ私たちは判断を慎重にくだすことができるだろうか。どれだけ寛容な態度でいられるか。第一報や速報はスクープではなく材料にすぎない。そんなのは時間が埋め合わせをしてくれる。大事なのは、性急な判断をくだす前に立ち止まって、ちょっと待てよと考える余裕。 「一服させて」。何気に好きな言葉である。