いろいろな分野にプロフェッショナルがいて、そのプロがさまざまな形で仕事をしている。 人にはいろいろと個性があるので、話をしているとつまらない人や、おどおどしている人がいても、作業をさせるとぬかりのないものだ。 それはどの分野にもいえる。 コンピュータの処理に長けた人もいれば、販売に長けた人もいる。料理人はスムーズに仕事をするし、救急隊員の処置も適切だ。メッセンジャーやバイク便の道路での移動はすごいものがあるし、経理のプロもいる。映像業界の人の仕事もかなりマニアックだし、市場の競りをする人もすごい。魚屋のお兄さんなんて輝いて見える。 演劇の制作者もぬかりない。手を回すところへの気配りは常にしているし、チラシの折り込みだって速いし、きれいだ。舞台技術者の舞台への建設の仕方なんても、すべてが合理的で優れているように見える。 俳優だって、すぐに飲み込むことのできる人もいるし、何よりも演技をすることへの能動的な姿勢は素晴らしい。きっと、その能動的な姿勢が俳優の基本でもあるかのようだ。 誰に対しても、どんな仕事に対しても、ぼくは結構敬服してしまう。かといってもの怖じはしないけどね。すごいなあ、いいなあ、なんて思うから、いろいろな仕事をしてみたくなるのだね。うらやましがることにかけては、人一倍の人かもね。 さすがに今携わっている演劇の仕事にたいしては、厳しくなるけれども、敬服することはするものだ。しかも、プロの仕事を見せつけてくれる人には、何もほめないけど、結構尊敬していたりもする。 隠れたところにプロもいる。路上であいさつをかわす主婦は、コミュニケーションのプロではないかと思ってしまう。自分のことを同時に話ししていて、人の話を聞いていないかのようでいて、かなり聞いている。聖徳太子もこんな能力があったのだね。きっと、ぬかりのない奴だったのだろう。 いいなあ、と思うことがあっても、自分がまねするのには限度があるから、それを実行できるわけではない。 自分の分野のなかで、どうすればそれが職業としてのプロ主義を確立できるかを模索している。 そんな中で、やはり、さびついたものをスムーズに動かし、動かないものには動くようにし、いいものにはその軌道を確保してやりたい。 料理人が包丁をといだり、清掃するのと同じことでしょうな。