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8月, 2007の投稿を表示しています

沸騰させること

昨今のテレビドラマや映画、演劇、自分たちの稽古も含めてつねづね思うのだが、分かってはいても難しいこと、それは、沸騰させること。ぷくぷく沸き立つような、まるで活火山の地獄谷にいったかのような、危険な恐ろしさを感じさせるような場面というものを作るにはどうしたらよいのか? そう、わかってはいるのだ、そういう緊張度をはらんだ場面にこそ、わたしたちは魅力を感じるのだということを。そして、ただ本当らしく見えるだけで満足はしないということも。しかし、いざそれが制作・演技するとなると、わたしたちは、それらしく見えるというだけで充足してしまい、本当にそのものである場面の緊張を追及することをやめてしまう。 いったい何が違うのか?沸騰しているかいないのか、それが問題だ! 温泉に行っても、喫茶店に行っても、それぞれの適温からぬるければわたしたちは満足はしないはず。熱ければいいというわけでもないが、温泉なら少し高めのお湯に快感を感じるし、コーヒーは少なくとも舌をさすような熱さは最低限ほしい。 演技にしても同じだと思うんだな。ある雰囲気を漂わすだけなら簡単にできるが、まさにその人物がその状況でその行動をするということは、ある高い沸点を伴ってこそ初めて成立するのだ。そこに至るまでは役の人物のようでいて、実は役の人物ではない。水とお湯は区別されるように、ある沸点を超えてから初めて役の人物になれる。 それは俗的かもしれないが、テンションやボルテージといった言葉に還元される。ただ気持ちだけを高めればいい演技になるというわけではない。しかし、いい演技には必ずある高い気持ち・緊張度が伴っている。 そこを捉えなければいけない。激しい葛藤。正反対の観点の戦いだけでなく、さまざまな立場の違いによる表に表れない潜在的な観点の違い。それらがぶつかるときに摩擦が生じ、熱を発する。水は沸騰して熱湯になる。そんな熱い戦いが見たいものである。 少なくとも、たとえば靖国参拝についてはさまざまな立場の葛藤がドラマを作っている。どの立場もぐつぐつ煮立って、相手を非難できる態勢にある。 こうした熱いドラマが見たい。表現方法が熱いものは巷にあふれるが、本当に鋭い葛藤が地下でどうしようもなく渦巻いているような表現にであうことはめったにない。その高い沸点を目指さずに、われわれはどこを目指すのか?金か?名声か

復活はまだか・・・?

今日はまあまあ涼しかったんじゃない?復調か? 気を張りすぎるのは良くない。以前から、気を抜くときの抜けようはあっけらかんとしていたわたくしだったが、最近その無邪気さが消えていた。 ぼくの悪い癖、なんでも背負い込む癖。ぼくが休んでいるときは、きっと誰かが代わりに動いているんだという思い込みを持とう! なんだ、このやる気は・・・ まあいい。 地球のオ−バーヒート、人間の沸騰。これは困ったことだが、そんな機会を利用して、ふと省みるものも出てきて、それはそれで有意義な期間なのかもしれないな。 まあ、この暑さ、これは大問題だろうけどな。 地球の温暖化という考えが市民権を確立している。大きい規模で抽象的に考えることが、具体的な身近な暑さとして実感できる。 市民権といえば、最近はポイ捨てをする人が少ないな。ぼくが子どもの頃、さも当然のようにゴミをそこらじゅうに捨てていたもんだ、多くの人が。この事例を見ると、人間、進歩するところでは進歩するのだという安心感を持てる。人間の進歩という可能性がなければ、人は何もやらないだろうな。 う〜む。とりとめのないことを書いている気がする。 普段が理屈っぽいだけなのかな? まあ、気張ると理屈が出て来るようで、それが人との衝突の原因にもなるようで・・・ この点で進歩はあるのか?おまえに・・・??? あると信じよう。

夏バテ

単刀直入に夏バテだな。暑すぎて思考能力がなくなっている。何か考えることが面倒くさい。しばらくぼうっとする生活に慣れると、それだけになってしまう。 おもしろいのは、そんな兆候が、食生活にも現れることだ。食べるのが面倒くさい。特に完全にオーバーヒートだった先週の中ごろは水しか飲まなかった覚えしかない。 もともと、夏場は弱いのだが、これほどまでに暑いと、もうただ生きているだけだ。どうしようもない。この状況はしばらく続きそうだ。不調、不調。またカムバックするさ!

隠れてサッカー

このニュースが勃発したときから釈然としないまま、ずっと傍観してきたのだけど、やはり、言ったほうがいいかなと思って言ってみる。今、ニュースを賑わしている騒動だ。朝青龍の事件。 結論からいえば、こんな大騒ぎすることのないこと。協会の処分は妥当だろうし、朝青龍の言い分というか行動は、わからないことはない。問題なのは、国民あげて大騒ぎすること。もしくは大騒ぎするように扇動させられていること。 たかがスポーツじゃないか、普段放り投げておくくせに、問題が起こったときだけ、良い人ぶって訓示をたれる必要はないのじゃないか?ぼくも常習犯だが、さぼりと虚偽の報告は人間の弱さから、もしくは本心から起こりうること。そうなったら処罰するならすればいい。自転車ロードレースのツール・ド・フランスでのある選手、ラボバンクのラスムッセンのチームからの追放も居場所の虚偽の報告からであった。ラスムッセンはチームから解雇され、必然的に最高位にいながらレースから追放されることになった。あとくされはない。次の日から、ラスムッセンは申し立てをし、一方レースは新たなチャンピオンが誕生する。ラスムッセンの行動をつべこべ何時間もニュースにしてテレビに流す必要はないのだ。 普段から大相撲を愛する人にとっては、この事件は許せないのかもしれないが、こういう騒動が勃発したときだけ、妙に道徳心を発揮したり、訳のわからぬ愛国心を発揮したりする人のほうが断然多く、声も大きく朝青龍を非難しているようだ。骨折していたのに、サッカーを楽しそうにやっているなんてお茶目じゃないか。中学生の仮病みたいだ!ぼくは、別に被害を被らないし、朝青龍が骨折しようがサッカーしようがどちらでもいい。だから、道徳心を用いて朝青龍を正そうとするつもりはない。知らないことに口は挟まない。しかし、今、ちまたは大騒ぎだ、スポーツ紙も芸能ニュースも。ただ踊らされているだけなのだ。そこであえて口を滑らして良い子ちゃんしてしまっているだけ。 世界にはもっともっと深刻な重大な、そして、もっと熟考してから言葉を発しなければいけないことがある。そんなことを沈黙し、または無視するようなお調子者になってはいけないな、とつくずく思う。 でも朝青龍のサッカーの映像みると、あの試合はスターをたたせるための遠慮の入った試合のようで、興行的でぼくは好きでない。朝青龍は隠れ

『お夏清十郎』と姫路

二泊三日で、公演のメンバーと姫路に視察旅行に行ってきた。 詳細は公演用ブログに載せていくつもり。 公演用ブログ: 「 向かい通るは清十郎じゃないか 」 お夏清十郎を上演するために、研究・観察・観光もかねて行ってきたわけだが、旅中はいろいろな収穫があったことはもちろん、いろいろな人との出会い・交流、思いがけない話や思いを聞かせてもらったり、きれいな海・空・町、そして城をも見ることができた。そして、メンバーの親睦を深めたり、さまざまな情報をつかんだり、なにより、上演するためのヒントをそれぞれつかめたようだった。 8月9日に毎年、お夏清十郎祭りというのが開催されて、それにあわせて旅行をしたのだが、祭り自体は町内会の小さな祭りで、地元の小学生などの踊りの発表や、地元出身の歌手のコンサートがあって、屋台もでていて、それなりに祭りの雰囲気があった。 その祭りの冠名となっている、お夏清十郎に関する催しものとしては、供養が行われた。お経を唱え、線香をあげていく20分ほどの供養だったが、その場にふさわしくない姿のコンパニオンもあってぎこちない雰囲気ではあったが、われらの公演メンバーのひとりが焼香にたったときは場が引き締まったと思う。 まあそれにしても、お夏清十郎をめぐる旅に出たぼくたちにとって、地元の人々のお夏清十郎の話を大切にする姿勢はとてもありがたく、そんな彼らからいろいろな話やいいものをもらったと思う。 そんないい旅を栄養に、いい公演にしていきたい。

溝口組

またまた、溝口の映画を見た。どうしてこうも溝口の映画を気にするかといと、もう伝説になるくらいの溝口組(溝口の映画のスタッフ及び俳優)の仕事ぶりのためだ。もちろん映画自体が良いから、その秘訣を探りだすべく、本などの資料も読んでみる。 映画や演劇では何々組といったチームワークで作品作りを継続することが多い。気心や方法を共有している人間と一緒に作品をつくるほうが効率もいいし、継続性がある。溝口組といえば、溝口健二を筆頭に、脚本:依田義賢、撮影:宮川一夫、美術:水谷浩、音楽:早坂文雄、といった面々が代表となっている。 内藤昭は後々の美術監督で名高く、その彼が水谷浩の助手として溝口組の仕事に参加しているときの文章やインタビューを読んでいるが、妥協を許さない仕事師としての溝口はじめ溝口組の仕事には、緊張感がみなぎっているように感じ取れる。下調べの考証や、ロケハン、撮影時の集中など、内藤氏のインタビュー以外でも、どのスタッフが語っても、どの役者が語っても、溝口組の仕事に誇り高いものを感じているようだ。なにしろ、日本映画が技術的にも人材的にも黄金期だったこともあって、溝口のひとつの作品は相当レベルの高い人材と技術の結晶だったわけで、そんな撮影や仕事ぶりのこぼれ話を聞くだけでわくわくするものだ。 思うに、溝口が1950年代に当然のこととしてやっていた、時代考証、下調べ、厳密な撮影、芸術性のある職人的な仕事の数々というものは、それ以前の溝口が映画にかかわっていた30年間の結晶でもあるし、経験や技術の完成でもあるが、そういった緻密に練り上げられた大胆な作品に、現代のわたしたちが少しでも近づくには、どれほどの格闘を自分に課さなければならないのかと考えると、目がくらくらしてくるぐらいだ。溝口のようなベテランで一級の監督が試行錯誤と莫大な仕事量を経て作った作品に、質的にどれだけ近づいていけるかを考えると、ぼくのような駆け出しが安易に仕事をやっつけてしまうのが恐ろしい。 こういうわけで溝口という高い目標を常に参考にしていきたい。もちろん自分ひとりでできるわけがない。周囲のチームの力で、やっつけ仕事でない、芸術家としての職人的な献身で仕事を進めたいと常々思っている。 今夜はNHKで大河ドラマを見たのも影響しているのだろう。ぼろくそに言って良いならいくらでもいえるが、情けないくらい

時間について

最近は、昼夜ずっと外に出ていたので、今日みたいにお昼に家の中にいると、なんだ!!この暑さは!!もうすっかり夏の真ん中に来ていたのね。昨日、友人の子どもが夏休みの宿題がどうのこうの言っているのを聞いたときも、ああ、もうこんな季節かなと思ったな。 そんなぼんやり屋の自分にかこつけるわけではないが、時間というものの不確かさを考える機会が多いのが最近の特徴かな? 時計ですすむ時間や明石の標準時刻というのも、一定で不公平のないようでいて、実はそうじゃない。 仕事の終業時間に近づくにつれ時間の歩みは遅くなる。 楽しい映画を観ている時間と、退屈でおもしろみのない映画のとでは、まったく中身が違う。 少なくとも、毎日の睡眠時間と一仕事の時間が同じだとは思えない。 これは、体感の問題ではない。時間は進み具合が不規則なのだ。 相対性理論というものでもないだろうが、時間の進み具合は変化し、絶対的な基準というものはない。ある視点からみた時間というものが、その人にとっての時間なのだ。ある加速をしている人にとっては、同じ加速をしている人と時間も空間も共有できることは、並立して走る人間・自転車・車などの例でもわかる。 ぼくは、大きい駅の中を歩くのがもどかしいのだが、それはもう完全に、歩く速度が千差万別であることからきている。狭い空間のなかでこれだけさまざまなテンポで歩く人がいると混乱しないほうがおかしいくらいだ。なにげに朝の通勤者の無機質なテンポやコンサートの後の観客の列はみな同じテンポなので歩きやすい。 テンポというと、アルド・ロッシによれば、イタリア語の「テンポ」という言葉は、環境と時間の両方を意味するらしい。 そういった固有のテンポを人それぞれが内包しているものなので、自転車のロードレースでも山岳地帯をアタックをかけて他の選手をぶっちぎるよりも、あるテンポを守って、しかも自分のペースで上ったほうが疲れも時間も少なくなるようだ。ぼく自信、陣馬高原の和田峠の上り道を、一度目に上るよりも、山頂にいって下りてきて、また上る2回目のほうが楽に上れるのだ。ウォーミングアップというものは、あるテンポに近づくための準備なのかもしれない。 時計は自分が見ていないときは針の歩みを止めているに違いないという子ども時代の思い込みも、あながち間違ってはいないのかもしれない。 時間

お夏清十郎〜雑感〜

伝説というものはおもしろいもので、後代に手を変え品を変え受け継ていく。ぼくの故郷にも安寿と厨子王の碑石があるが、二人がそこを通ったということはありえない、が、しかしなぜかあるのだ。浦島伝説にしても東アジアから東南アジアにかけて同じような伝説がいくつもあるというから、なにがオリジナルなのかという詮索はする意味もないようだ。 お夏が狂乱した後にも、いくつもの伝説があり、野山を駆け回ったとか、姫路城下を徘徊したとか、正覚寺で尼僧になったとか、葛坂で茶屋を開いたとか。まあ、噂というよりも、後代の人が脚色して自分の土地にかこつけたとか、似たような女性をさしてお夏と名づけ親しむうち、伝説にすりかわってしまったり。 お夏がどのように生涯をすごすにせよ、不思議なのは、お夏は長生きをしたということが共通している。自殺を図ったが死に切れなかったり、周りの人たちにとめられたりした。狂乱も次第に止んだということも共通している。 清十郎と駈け落ちをし一大事件を起こしたお夏の生涯の行く末を、庶民は惨めなものにしたくはなかったのかもしれないし、実際のところ、お夏の狂乱は収まったのかもしれない。 井原西鶴にせよ、近松門左衛門にせよ、お夏は尼になり清十郎を弔って暮らしたという結末にしているのは感慨深い。事件は悲劇的な結末となってしまったけれど、生き残った人間が気が狂うだけで一生を失うのは感傷というものだ。清十郎の死の衝撃を受け止めて人間的に成長していくことに、両作者は意義を見出したに違いない。しかも、噂や聞き伝えがそれを証明し、お夏は立派に尼となって誠意をこめて弔っているという言い伝えの声が大きいのだ。 お夏が衝動的に大恋愛をし、でかいことをしでかし、悲劇となった後は立派な人間になるという筋立ては、庶民感情の支持するものであったのだろう。そこに庶民は幸福のかけらを見出したにちがいない。第二のお夏が次々と現れ、心中というかたちを選んだり処刑されたりする歴史が繰り返されるであろうが、当のお夏は幸福の円環の中にあることはおもしろい。 いたたまれないほどの悲劇的な結末でもなく、かといって安易なハッピーエンドでもなく、なぜか歴史に消え行くベクトルでお夏の伝説が受け継がれているのがおもしろいことだ。ある時点で、表舞台から自ら消えていった伝説の女優というのがいるが、その感覚に近いものがある。

いろいろな人

駅での小売の仕事をやっていると、いろいろなお客さんに対応しなければいけない。普通のことより、かえって奇抜なお客さんのほうが印象に残っていたりするが、そんなお客さんに対応するのは、仕事中は面倒くさくもある。 昨日は、「痛風になると、ビールを飲むと足が痛くなるの?」という質問を投げかけられた。いやいや、たとえこの店でビールを販売はしていても、忙しそうにしているレジの店員に対して発する質問か?こちらは、ただ目が点になるしかない。苦笑いと「分からない」でごまかしたが、そのおじさんは誰かに話したくて、公的な小売の店員に質問したのだな。普段、道を聞かれたり、銀行のATMの場所を聞かれたりはするが、こんな質問は初めてだ。 もう、ブラックに「ビール飲むと死ぬんじゃないですかね?」とでも答えれば、満足してもらえたか。 こんな話も聞いたことがある。「家まで帰る自信がないので、証人になってください」といって、病院の診察券を見せる。・・・・・・まあ、なにも忙しそうにしている店員じゃなくて、なんなら駅員にでも言ったらよかったのに・・・診察券をさっと出したところをみると常習犯? 一番あきれるのは「電話どこにあるの?」という質問。5メートル先にあるんだけどな・・・なにも見ていないのだろうな・・・ もっとあきれるのが結構あったりする。「ここはどこですか?」・・・いやいや、あなたはどこから来たの?と言いたくなるが、3,4回以上あるな、こういう事例は。駅の中だから、入るとき、降りるときに駅名がはっきりと出ているはずだが・・・忘れるものなのかな?1,2分すると・・・ 頭にくる事例もある。いつも日本語で買い物をする女性、おおよそ日本人に見えるのだが、なぜか、あるときでたらめな英語で、しかも日本語訛りで質問してきた。英語で答えたら、「おまえの英語は間違っている!アホ!」といったことを、偽英語で言ってきた。こっちもむきになって、正しくはないかもしれないが、通じる英語で「おまえさんは何をいいたいのかね?」と質問したり、「これだからこうなんだよ」と教えたりするのだが、分からないらしい。その女性、怒って駅員を呼んできて通訳させるが、まあ同じこと。結局、何をしたいのかがわからないし、何をいっても通じないのだから、混乱するばかり。とんだお騒がせな人だった。 まあ、過去にあったことだから、こうして